(何故こんなことになったのだ。)
ラダマンティスは、重たい石の柱に冥衣の翼を押しつけている。
「いたか!」
「どこに隠れた!」
ガシャガシャという鎧が乱雑に擦れ合う音と、無数の足音が、薄暗い中数メートル先を通り過ぎた。
ラダマンティスは、彼らに見つからぬよう、左の翼を自分の身に寄せた。
「ふふ・・・」
ラダマンティスが右腕に抱く女性から、堪え切れないという風に、楽しげな笑いが漏れた。
「パンドラ様・・・」
ラダマンティスは、微笑むパンドラの唇を見た。
(何が楽しいのだろうか・・・)
薄暗がりで、悪戯を楽しむように肩を震わせる彼女。
まるで妖精のように美しい。
ラダマンティスは、軽いため息を漏らさずにはいられなかった。
パンドラが長いまつげを上向けた。
宝石のような瞳がラダマンティスを見つめた。
どくん、と心臓が跳ねる。
「何だ、そのため息は?」
パンドラが、うらめしげな言葉とは裏腹に、機嫌良さそうにささやいた。
ラダマンティスは、動揺を悟られないよう、視線を逸らし、無愛想に返す。
「パンドラ様・・・何故このような事を」
「うん?」
その表情に釣られてか、パンドラも真面目な顔になった。
「何故と言われてもな」
その間にも、2人を探す足音と声が、遠く近く、断続的に聞こえてくる。
***
事の発端は、パンドラが冥闘士とスケルトン達の訓練をふらりと見学に現れたところに始まる。
岩ばかりの殺伐とした冥界の一角。
煙の臭いの中に、無数の足音、金属がぶつかり合う音、気合いの声、呻き声、叫び声が方々から上がっている。
ラダマンティスは、小高い台地に仁王立ちで腕組みし、訓練の様子に鋭い目線を投げていた。
「やっているな」
下方から、この殺伐とした雰囲気にそぐわぬ、鈴の鳴る声がし、振り返った。
「パンドラ様」
ラダマンティスは目を伏せて膝をついた。
パンドラは漆黒のドレスを手でつまみ、ラダマンティスの立つ台にハイヒールを載せた。
ドレスのドレープの奥に、白い足首が見えた。
ゆったりとした動作で、ラダマンティスの横に立つ。
良い、というパンドラの合図にラダマンティスは立ちあがった。
戦士達はざわめいてパンドラに視線を注いでいたが、ラダマンティスの無言の一瞥に竦み上がり、各々のトレーニングに戻った。
パンドラは黙ってラダマンティスの隣に立ち、訓練の様子を眺めていた。
先ほどまで煙の臭いばかりだったのが、彼女が居るだけで花の香りに変わる。
暫くして、2人の足元で、鎧を身にまとった数人の戦士達が、もうだめだあ、と音を上げながら、ど
しゃ、と地面に尻もちをついた。
それをきっかけに、周囲の者たちも、両膝に手をついて肩で息をしたり、頭をうなだれた。
「お前達!」
すかさずラダマンティスの怒号が飛ぶ。
「たるんでいるぞ!パンドラ様にそのような醜態をお見せして、恥ずかしくはないのか」
「そうは言いますけど、ラダマンティス様・・・」
「もうヘトヘトですぜ!」
などと、数人が軽口を叩いたり、大げさに倒れたりしてみせた。
「まったく・・・!」
ラダマンティスは呆れた声を出した。この男、強面で厳しくはあるが、部下を理不尽に扱ったりはし
ない。
パンドラは、厳つい表情のラダマンティスを見上げて思わず笑みを零したが、本人は気が付かない。
部下の数人がそんな2人を見て、隣の者を肘で突きながらくすくすと笑った。
「何を笑っている!」
ラダマンティスがパンドラを残して台からひらりと飛び降り、部下の数人とじゃれあっていると、誰
かが声を上げた。
「いつも、ラダマンティス様ばっかりパンドラ様と一緒にいてずるいよな」
呼応するように、別の方からも聞こえる。
「そうだそうだ」
「俺だってパンドラ様とお話してーぜ!」
「パンドラ様を捕まえたら、デートして貰えるっていう訓練なら、俺がんばっちゃう!」
「俺も俺も!」
「なっ・・・!」
ラダマンティスの動揺を余所に、場は異様に盛り上がっている。
「パンドラ様ー!俺とデートしてー!」
「ばかっお前なんか相手にされるかよ!」
「俺と俺と!」
じりじりと兵士達とパンドラとの距離が縮まり、今にも襲いかからんばかりの勢いだが、パンドラは怯える様子もなく、涼しい顔をしている。
「良いぞ」
えっ、とその場の全員が、ラダマンティスまでもが、耳を疑った。
「1時間やろう。私を捕まえてみろ。何でも望みを叶えてやる。ラダマンティス」
突然名を呼ばれ、慌てて「はっ!」と短い返事をする。
「お前は私を連れて逃げろ」
その後の騒ぎといったらなかった。
パンドラが何でも望みを叶えてくれるとすれば、富でも地位でも何でも手に入る。
あのパンドラの身体でさえ自由にできるかもしれないという邪な想いに囚われた男達の小宇宙は、今や極限まで高まっていた。
ラダマンティスはただならぬ危機感に、次の瞬間には地面を蹴り、パンドラを抱き上げると、喧騒を後に、その台地から飛び去った。
そうして、訓練に参加していた者たちのみならず、冥界中が総出で「鬼ごっこ」が始まったのだ。
そのまま、冥界の外へ、地上まで飛び去ろうかとも思った。
また、追手を皆殺しにすることなど冥界三巨頭のラダマンティスにとっては造作もない。
しかし、パンドラがこれをゲームとしている限り、その意思に逆らうことはできなかった。
数十名に次々襲いかかられ軽くいなすのを何度か繰り返したが、数が多く、また殺すわけにいかないだけに、いつパンドラに手を伸ばされるかひやひやした。
それで、彼女を連れてひとまずこの宮殿の一角に身を潜めたというわけだ。
***
「迷惑だったか?」
パンドラは真顔のまま、依然として目を逸らすラダマンティスをまっすぐに見つめて言った。
ラダマンティスはいたたまれなかったが、なんとか瞳だけ動かし、それを見下ろした。
近い。
今更ながら、彼女の細い肩を抱く右手に汗をかいてきた。
冥衣越しの腕に預けられた華奢な背中。
自分の鼓動が煩い。
早くこの状況を抜け出したい欲求と、一生このままでいたい欲求が脳内で千年戦争を繰り広げている。
ラダマンティスのこめかみを汗が伝った。
「・・・・・」
「・・・・・」
数分間、そのまま見つめ合った後、パンドラはフイと顔ごと目をそらし、訓練の邪魔をして悪かった、と小さく謝った。
「少し調子に乗りすぎたかな」
傷ついたことを隠そうとするように、胸の前で両手を重ねて握っている。
「この頃、何だかお前が私に優しいような気がして、甘えたかったのだ」
数秒の後。
パンドラが苦しさに身をよじらせ、細い両腕で冥衣の胸を押す感触に、ラダマンティスは我に返った。
慌ててパンドラから身を離す。
パンドラがはあっ、と息苦しそうに、甘い吐息を漏らした。
ラダマンティスの唇に残る熱、柔らかい感触。柱についた両手。
その間で、顔を上向け、瞳を閉じたパンドラ。
彼女は眉根を寄せ、頬は上気している。半ば開いた唇が、とろりと糸をひいた。
ラダマンティスが、我を失いパンドラの唇を貪ったのだとはっきりと認識するのと、パンドラが両腕をラダマンティスの胴に回し、冥衣の胸の辺りに頬を寄せるのとはほぼ同時だった。
ラダマンティスの顔に、一気に血が昇る。
(俺は何てことを・・・・・・!)
それに加えて、状況が理解できない。
何故パンドラは自分に抱きついているのか。
本来、ハイヒールで踏みつけられ、電撃を食らわされ、「無礼者!顔も見たくない」と罵られているはずだ。そうでなくてはならない。
黙っていると、きゅ、とパンドラの両腕に力がこもり、豊満な胸が冥衣越しに押し当てられた。感触はないのだが、思わず想像してしまう。
(これは白昼夢だ・・・幻覚だ!そうだ、幻朧魔皇拳でも食らわされたに違いない、おのれカノンめ・・・!)
ラダマンティスが何の罪もないカノンを恨み始めた時、声がかかった。
「おい。1時間経ったぞ。ずっとここにいたのか」
「!!!」
アイアコスだった。
ラダマンティスは慌てて態勢を立て直し、彼に向き直る。
パンドラは何食わぬ顔でその前に立った。
「もう少し相手をしてやらねば、訓練にならなかったな」
「そうですね。しかし雑兵どもは楽しんだようですよ、妄想を」
カツカツと石の床に足音を響かせて、アイアコスとパンドラはラダマンティスから立ち去ろうとする。
パンドラが肩越しに言った。
「ラダマンティス、ご苦労だったな。どうした、来い」
「はっ」
動揺が収まらぬまま、パンドラの後に着いて行く。
アイアコスの背が2人の数歩先に行くと、パンドラが素早くラダマンティスの手を握って言った。
「良かったぞ、お前の唇は」
「~~~~~~!!!!」
ラダマンティスの声にならない声に、アイアコスが振り向いた時には、パンドラの手は離れていた。
Fin.
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